架線の普及
さて、昭和30年ごろになると戦前に比べ、すべての面にわたってずいぶん便利になった。
交通機関は発達し、バスはいたるところに通うようになり、トラックの著しい普及は荷物の
輸送車情を大幅に改善した。
まだ砂利道が多かったとはいえ、道路は改修された。
それまで
の馬車や牛事はいつしか姿を消し、材木の筏輸送も次第にトラック輸送に代わっていった。
ちェうどこのころ私は稲子木材の伐出請負師として京都府奥上林村に赴任していた。
まだ京都府内では架線は普及しておらず、トラックの入るところまでは旧式の木馬、牛車、
馬車、手曳き事などで出材していた。
そんな矢先に私が架線搬出を行ったので、通行する人までも珍しがってしばらく見物していた
ものである。
小型集材機の発明

ここでの伐出を終え、近くのつぎの現場に移ることになるが、そこはカーブが
大きくて連結式架線は使えなかった。
矢遠にしても、5、6回の縛り替えが
必要で費用がかさむ。
そこで峠を越え、現場と反対側の舞鶴市方面に運搬する
ことを思いついた。
こちらのほうが費用面でも安く上がり、作業的にも効率的
であったが、ただ、材木を一度尾板まで上げなければならない。

かつて裏木曾とよばれる付知営林署で請負をしていたころ、営林署が岩手富士
という大型集材機を使っていたことを思い出した私は、それをヒントに小型集
材機の製作にとりかかった。
早速、大阪・堺の鉄工所に行き、土木用ウインチ
の一部を改造、それに自動車の中古ミッションソとディーゼルを取りつけ、高速、
低速切り換え可能な小型集材機を開発した。
さらにそれに必要な付属品の図面を
作成し福知山の鉄工所に依頼した。
すべてがそろったところで、架線を架設し分解した集材機を架線にかけてカグラ
サンで巻き上げた。
こうして据えつけたのである。

いよいよ試運転。
作業員がそれぞれ受け持ちの場所についたのを見計らい、エン
ジンを始動した。
キャレージを荷物の掛け場に下ろし材木を掛けると、巻き線に
よって材木は上りだした。
みんなが固唾をのんで見守っている荷物は宙で振れ
ながらしだいに高くなる。
予定のところまで上がったのを確認してクラッチを
切り替えると、テールに引かれて盤台に下ろされた。
その後、作業は予定どおりに
すべてが順調に進み、そのうち作業員が集材機の運転を覚え、交代で操作できる
ようになった。
作業は驚くはかりはかどった。
このように集材機の出現はそれまでの作業手法を一変させた。
もっとも危険な
木馬曳きがいらなくなり、ついで修羅出し、迫り出し、薮抜きなど一切を省き、
また架設面でもワイヤーロープの締め上げなどに応用するようになった。